中国民主正義党のホームページ(http://www.cdjp.org/)から


 李光哲(正義党)「共党騙人的一套凸現在某些民運人士身上」


 ある民主化運動活動家が「民主が第一で、民族が第二」と話し、その他の民主化運動活動家もみな同意した。もちろん、これらの「民主化運動活動家」たちはすべて漢族であり、この言葉はウイグル族の「新疆独立」活動家の話に対して向けられたものである。


 よろしい、私は中国の朝鮮族であり、私はあなた方漢族の「民主化運動活動家」たちと論争しないし、あなた方の言う「民主が第一で、民族が第二」にも同意するが、――あなた方漢族はまず私に「第二」の見本を打ち立ててもらいたい。


 できますか?


 幸いに、私が加入している中国民主正義党の海外本部は「民主が第一で、民族が第二」とは認識していないし、そうでなければ、私は明日にでもすべての朝鮮族党員に正義党を辞めるように主張する。


 もし単独で「民主第一」というならば、単なる空文句であるが、ただし「政治的な正しさ」からは、中国のような共産党独裁国家の人にとっては、「政治的に正しい」スローガンは敏感さも神経質さも欠けるので、何の過ちも見いだせない。


 だが、「民主が第一」と「民族が第二」を一緒にして語るのは、絶対多数を占める漢族から言えば「政治的に正しい」のかもしれない、なぜなら漢族の人から言えばこの言葉は敏感さにも神経質さにも触れないからだ。でも、私は漢族ではないので、私がまず最初に思ったのは、「民族が第二」は「漢族が第二」なのではないだろうか、と。続けて私が思いついたのは、絶対的に優勢な漢族がこの話をわれわれ少数民族を騙すために用いているのではないか、実際の意味はわれわれ少数民族に「漢族が第二」ということを受け入れさせることではないか、ということだ。


 私が警察学校で学んでいるとき、教官は繰り返して「人民大衆の生命と財産が第一」と強調し、われわれが警察官になるときは「いつでも人民大衆の利益のために犠牲になることを覚悟しておく」でなければならないとしたが、クラスの誰も信じるものはいず、誰もそうなろうと思うものはいなかった。しかしわれわれはみないろいろな場面でこの言葉を繰り返さざるを得なかった。


 警察学校を卒業して後、私は第一線の警察官にはならなかったが、毎日第一線の警察官と接触しなければならず、特に刑警隊に配属させられて後は、生命の危険をも冒す第一線の警察官に会う機会がさらに多くなった。私は実際の仕事の中で、警察官の誰一人として「人民大衆の生命財産」を「第一」に置き、警察官自身の「生命」を「第二」に置くものなどいないことに気づいた。そこで、私が法学を大学で学ぶようになったときに、再度この問題を考えるようになって、私は「スローガン」と「実際」が符合できるような言い方を探そうと希望し、後にひとつの結論を得た。この「第一」、「第二」という言い方は不正確で、「人民大衆の生命財産」と「警察官の生命」は等しく重要であり、共に「第一」である、と。この言い方を、すべての刑警隊、第一線の警察官はみな正確であると言い、みんなが警察学校の教官のあの種の「教育」は古臭いものだと言ったが、私の認識では古臭いだけではなく、人をだますものである。共産党の中国の統治も、潜在意識は「騙せれば騙す」で、騙し通せれば騙し、騙し通せなければやはり騙すで、それが正しいかどうかにはまったくかかわらない。


 警察学校の教官のあの種の教育は人をだますものである。誰が誰をだます? 警察は人民大衆をだまし、共産党政府は人民大衆をだます、なぜなら警察が人民大衆の生命財産を保護すると言う必要と同じく、共産党政府の警察は主動的な地位を占め、優勢だからである。


 このときより、私は多くの事柄は「第一」と「第二」をで分けることができないと気づいた。上で述べた人民大衆の生命と警察官の生命もこのように区分できず、民族と民族の間も当然このように区別できない。そして「民主が第一、民族は第二」というのは、「大漢族が第一、少数民族が第二」というのが隠された意味である。なぜなら「民族」を民主の「第二」に置くことは、人口で絶対多数を占める「大漢族」の「民主」を意味するだけであり、これは人をだますものであり、このことと少数者の権利と利益を保護する本当の「民主」とは相反するからである。


 私が思うに、この言葉を話した人、これに同意した漢族の「民主化運動活動家」たちは、間違いなく意識してこのように言ったのではない――だが、無意識のうちにこのように言ってしまったということは、状況がさらに悪いことを説明するものである。なぜなら、無意識的に語ったということは、事実上彼らの潜在意識のなかに「大漢族第一、少数民族第二」という観念があることを説明するからであり、「思っても思ってはいけないこと」が話され、皆が同意したというのは、非常にまずいことである!


 われわれは民主を主張し、民主が少数者の権利と利益を保護することと同じだと考えるが、これは口先だけでそう考えるのではなく、心からそう考えなければならず、深く根を張った潜在意識のなかでそう考えることが、本当に民主を考えることなのである。もし潜在意識のなかから飛び出したものの表明が、少数の権利と利益を顧みないというのであれば、たとえ心を込めて編んだ綺麗な表明が、再度人を感動させ、再度よく聞こえても、「警察は人民大衆の生命財産を第一におき、いつでも犠牲となる準備をする」というのと同じように、人をだますことでしかない。


 中国のある種の「民主化運動活動家」が民主を理解しないと言うこと、これは遠慮した言い方である。


 中国のある種の民主を理解しない人は「民主化運動活動家」と呼ばれるにはふさわしくないと言うこと、これも遠慮した言い方である。


 私は、あれらの、頭の中に覇権独裁思想が深く根を張っている人は、「民主化運動活動家」を装い公然と人をたぶらかすのをやめろ、と言いたい。もちろん、これは遠慮しない言い方である。


 さらに遠慮なく言えば、、、いややめよう。私たちは「友誼第一、競争第二」だから――ハハハ。



附録:『ボイス・オブ・アメリカ』の報道のなかの民主化運動と新疆独立の間の“民族”問題についての意見と見方の違い


 「倪育賢:民主が第一であり、民族は第二」


 だが、彼の観点は何人かの民主化運動活動家の反駁を受けた。中国自由民主党責任者の倪育賢は、漢族全体に中共少数民族を圧迫している責任を負わせるのは不公平である、と語った。同時に倪育賢は民主が第一であり、民族は第二であるという考え方を提出し、彼は、民主、人権を離れた民族運動はその否定物へと向かい、民主的発展を阻害する力となる、とした。


 倪育賢:もしわれわれがわれわれの反抗の矛先を共産党一党独裁体制を打倒する、この主要な焦点に集中することをしないのならば、われわれはお互いばらばらに行動するということになり、あなた方が出した民族の要求、民族独立や民族の平等などすべて解決には到らないだろう。


 その他の民主化運動活動家、たとえば項小吉、陳破空の発言も倪育賢の観点に呼応した。大会主催者の于大海は、今回の会議の目的はお互いに理解を促進し、双方の協力を求めるもので、いくつかの問題の探究は始まったばかりであり、以後も継続して交流する、と語った。


http://www.cdjp.org/gb/article.php/2494