劉暁波:「底流」ではなく「バブル」(上)

大紀元』「【専欄】劉暁波:不是「潜流」而是「泡沫」(上)――推荐《潜流:対狭隘民族主義的批判与反思》」


 【大紀元11月17日訊】民族主義思潮が日に日に「政治的に正しく」、かつますます好戦化・与太者化・ゴロツキ化している時、『底流――偏狭な民族主義に対する批判と反省』という一冊の出現は、実に時候に適したものといえる。もちろん、国内の制限された言語環境で、この本の民族主義に対する批判が「底流」と「偏狭」の定義をめぐって明快でなく、さらにメディアで褒め称えられない状況にもかかわらず、民族主義の気違いじみた声がメディアと出版界に充満している時に、この民族主義を批判した本が、学術書籍のベストセラーで9週続けて一位となったことは、大陸人の価値観が日を増して多元化しつつあることを多少なりとも説明している。新左派がグローバリゼーションに対して悪罵を投げつける中、普通世界の価値を大切にする自由派がまだいること;国家主義者の主権に対する崇拝の中で、人権を主権の上に置く個人主義者がまだいること;当局が中国と西方の衝突を民族間の争いへと歪曲し、毎日「中国をやっつけようとする魂胆はなくならない」と“怒れる青年”たちを脅かしている時、自由と独裁の間の闘いを直視する道義と勇気から絶えず発言するもののいること、“怒れる青年”“怒れる中年”たちが義和団式の排外主義的陶酔のなかで、是非をはっきり区別できる目で反西方思潮に対してきちんとした透視をするもののいること、なまかじりの軍事専門家がテロに対する無制限戦争を大騒ぎするなかで、文明と野蛮の区別に対して明確に意識する学識のしっかりした国際問題専門家もいること。


 目下の中国の民族主義は、言葉の上では西方に対し、グローバリゼーションに対し、自由の価値に対し、ゴロツキ式の「NO」を言うことに依存しているが、現実には情報閉鎖制度と当局のイデオロギーに依存しており、さらには距離の離れていないところにある一党覇権に対する沈黙と媚を売ることに依存している。だが中国の自由主義は言葉の上では西方文化を、グローバリゼーションを、自由の価値を肯定することを訴え、現実には言論自由の追求と言論弾圧への抗議に依存している。つまり、民族主義アメリカの対外覇権に「NO」と言い、自由主義中共の対内覇権に「NO」と言うことになる。


 実際のところ、「偏狭」という言葉を使って中国の民族主義を描き出すことは、本当は平和的グローバリゼーション時代の民族主義思潮におべっかを使っている。私の見るところ、外来勢力の侵略や抑圧に抵抗するときを除き、民族主義は正当性を持たない。そしてその他の状況下では民族主義は往々にして政治家の権力をもてあそぶためのイデオロギー的道具となるものであり、いつ偏狭でない時があるのか?偏狭であるだけでなく、気違いじみており、日を追って好戦的、与太者化、ゴロツキ化する。千万の愛国青年が愛国主義サディズムの鞭とした、インターネットでの女性アイドル趙薇に対するマスターベーション的暴力行為のように。民族主義と反覇権はテロリズムを声援する拡声器となった、ビンラディンを聖戦の英雄に奉じ、ヤシンとアラファトを自由戦士として尊敬するように。


 自らを「天下の中心」と見、「すべての国が慕って訪れる」のを受けるのに慣れた老大帝国、自らを「文明古国」とし、その他の民族を「夷狄」視してきた帝王の私産王国が、突然外来文明に連戦連敗させられ、内では無能でなすこと人に及ばない自らの落伍が、どのように時には自らを卑しみ、時には傲慢尊大になるめちゃくちゃをし得るのか?


 たとえば、極端民族主義者がこともあろうに提出した「光栄孤立論」がある。このような“新思考”は、大概は自らが何者かも本当にわからず、その時代錯誤なさまは、同時に米ソ両国に対抗した毛沢東時代に比べてすらひどく気違いじみている。毛沢東ですら第三世界のゴロツキ国家を買収し、それで持ちこたえられないときはアメリカと連合してソ連に対抗したのに、全体主義が斜陽化したグローバル時代、頑迷な金正日ですら六者会談に参加し、中国がWTOに加盟し中国経済の国際依存度がますます高くなり、中共党首領も西方大国の受け入れを切望し、新左派たちも自分が西方の大学に招聘されたことをあたりかまわずみせびらかして無数の“怒れる青年”がさらにインターネットで恨みごとを書き散らす……そのような時代に、どのように「孤立」で「光栄」なのか?


(続く)